明日、いや
あと数時間。
20年前
揺れる前に起きた
恐ろしい音が襲ってきて、その後揺すられて、あれ以来聞いたことのない破壊音が周囲を包み、その最中、空が閃光し
揺れが収まった瞬間、怖いぐらいの静寂。
数秒後、悲鳴混じりの人の声が一斉に聞こえた。
世界が終わったと思った。
親父がトイレで糞して水流れたぞ〜って言った。 水はその一回分で終わった。
アホな話や
なんとか家を出ると、空は火災で真っ赤に焼けていた。
その後車に乗りラジオで現状確認した。 神戸だけ??? ショックやった。
裏の家は裂け、傾いていた。
80過ぎたおばあさんが生き埋めに、周囲は一階がない家が多数。
車のタイヤは揺れでバーストしていた。
とにかく裏の婆さんを助けに、声かけると返事があった 裂けた2階から侵入して30センチぐらいになった1階を匍匐前進で侵入。怖いとか危険とかそんな感覚は欠如していた。
婆さんを発見した、僕が乗っているタンスの下に腕があるという。 片手で自分の乗っているタンスを持ち上げる。 通常ならできない行為。 しかしやるしかなかった。
タンスを持ち上げようとすると、握力でタンスを破壊していた。
火事場のクソ力? その後婆さんを引き上げ、数日一緒に暮らした。 数年前に他界されたが、終始感謝されていた。
青木の市場は業火に包まれていた。 43号線では海から給水していた消防のホースを守りたい地元の人と43号線を通行したいドライバーとがもめていた。
火災を見ていた人が本人の家に火がついて大慌てで帰って行ってた
深江で高速が倒れてるなんて信じられない噂を聞いた
家に戻って、当時の彼女、今の嫁ですが、電話した。
三宮は電気が来たって、掃除機の音がした。
もうすぐやと思った、 しかしほぼ、1ヶ月電気は復旧しなかった
その後、近所の友人の安否確認と食料を求めて深江〜芦屋へ向かった、深江ではコンビニがもぬけの殻になってた。残ってるのはパチんこ雑誌と溶けたアイスクリームだけだった。
深江の駅前は自販機倒して、中身を出そうとする人もいた。
その後、倒壊した阪神高速を見た。 何もかもに驚いた
しかし、芦屋は違った。
停電になってなかった。 なんとか小奇麗にした人が外出し、自販機でジュース買ってた。
数百メーターの違いにショックを受けた。 当時のバイト先によった、ガソリンスタンド。
洗車機用の井戸水が出てることにも驚いた。
近くにダイエーがあることに気付いてよってみると買い物客が長蛇の列。
とりあえずあるものを買い漁った。
申し訳ないですが、並んでる時にかごに入れたクッキー食べた。 精算しましたよちゃんと
帰り道も友人の安否を確認しつつ戻って行った、確認に行った場所によっては小さい子供にどうしてお兄ちゃん、手伝ってくれないのって言われた。。。。あの目が忘れられない。
そして、いえに戻った。 電気がない17時にはもう、真夜中になっていた。
前日の夕飯のカレーを冷え冷えの状態でかじって布団に入った。
夜通し救急車の音が聞こえていた。
我々にとっては夜中だった21時に電話がなる・・・・
寒い中電話に走って、受話器を取る・・・・・
もしもし・・・・?
大丈夫ですか? この繰り返しやった。
お願いやから、静かにして。 21時はあなた方にとっては遠慮した時間、しかし我々には遠慮してほしい時間やった。
いとこから電話があった、見たものの惨劇を伝えたら、知ってるでって言われた。
衝撃的やった・・・・・なんでって聞いたら、TVでって言われた。
逆にショックやった。 TV見れるんや!?
それ以来、震災の番組は齧りつくように見てしまう。
これってトラウマ?
翌日だったか、当日に 御影方面のガスタンクが爆発するかもしれないのでと避難勧告がでた。
西から、どこへ向かうでもない人々が東へ移動していた。
そんなことより、生きていく努力が必要だった。
家の前に、崩れたブロックを集め、コンロを作った。 燃料は裂けた裏のお家。
水はお向かえのおうちに井戸があったので、コーヒーフィルター3枚重ねて濾して煮沸して使ったり飲んだりした。 この体験で10年後ぐらいにTV出演することになるんやけど
まず、自作コンロで、炊飯し、味噌汁作った。
旨かった記憶が残ってる。
何より暖かいご飯が幸せでした。
食料の配給はその後数日後・・・・・
電気復旧は結局ほぼ1ヶ月。しかも、見えてる交差点の街灯が点灯してから1週間後・・・・・
水道の復旧はその一ヶ月後、ガスに至っては復旧後新聞に完全復旧って出ましたね。
三宮の生田新道で初めて出店したカレー屋さんってTVで取材受けた時も僕が手伝ってカレー作ってました 笑
話ししだすと止まらないですね。
続きはまた。
記憶は鮮明ですね
色々あった20年。
明日、高校時代の友人と集まります。
懐かしい。
20年が信じられません